2014.07.02
2014年7月2日
一般財団法人 東京顕微鏡院 食と環境の科学センター
食品理化学検査部 部長 中里光男
「ふぐ汁のわれ生きている寝覚めかな」これは蕪村の句ですが、江戸時代にはすでに庶民にもフグがご馳走であること、これを食するには相当の覚悟がいることが認識されており、当時のおっかなびっくりフグを食する情景を彷彿とさせる句のように思います。
豊臣秀吉の朝鮮出兵の際、九州在陣中にフグを食して死亡する兵士があとを絶たないことからフグ食の禁止令が出され、その後、江戸時代を通してフグを食することは禁止されていました。ところが、江戸時代も元禄から文化文政の江戸文化の爛熟期を迎えたころ、その美味しさゆえに、人々の間にフグ食が広まっていきました。
「ふぐは食いたし、命は惜しし」とは落語の一節ですが、とにかくフグを食するのは命懸けということがよく分かります。江戸時代に関東地方では、フグのことを「てっぽう」と呼んでいました。これは当たったら死ぬという意味で使われていたようです。
今日では、これまでの長年の経験から、適切な処理を行えば安全に食することができることが分かっており、ふぐ料理といえば、日本の食文化を代表する料理になっています。しかし、取り扱いを間違えると中毒事故になり、命を失うことになりかねません。
フグ中毒は死亡率が高く、昭和30年代には毎年100名前後、40年代には年々減少しているものの、それでも22~86名の死者が出ていました。平成に入ると死者数はほとんど一桁で死者ゼロの年もあります。これは行政による注意喚起等により、人々にフグの怖さの実態が広まったためと思われますが、まだまだ年間数十件の中毒事故が起こっています。
最近、10年間のふぐによる中毒の発生状況を表1に示しましたが、この10年間の中毒総件数は277件、患者総数は387名、死者数は12名、致死率は3.1%となっています。これらの事件の大半は一般人が釣ってきたフグやおすそ分けで貰ったフグを家庭内で調理して起こったものです。
フグは強力な毒素を持っており、フグを安全に食するには正しい知識と技術をもち、細心の注意を払いながら調理をしなければなりません。フグの有毒部位は種類によって異なるため、ふぐの種類鑑別の知識がなければ、素人調理は危険です。また、フグの毒性は同じ種類であっても漁獲海域により大きく異なり、季節によっても変化し、個体差も相当にあります。
このようなことからフグの調理には知識と慎重さが要求されます。そこで、厚生労働省は1983年に「フグの衛生確保について」という通知を出し、「処理等により人の健康を損なうおそれがないと認められるフグの種類と部位」を定め、漁獲海域、フグの種類、食用部位を定めています。この中で毒性の強い肝臓と卵巣はすべてのフグで食用とすることを禁止しています。
表2にフグの種類と食用部位について示しましたが、フグの種類によっては皮や精巣に毒素が含まれているものもあり、注意が必要です。よくヒレ酒に用いられるフグのヒレは皮に準じて扱われ、ヒレ酒を造る場合には皮に毒素が含まれていない種類をよく吟味して用いる必要があります。
フグの種類の鑑別は素人目には難しいことから、フグの有毒部位の除去は都道府県知事等が認めた者(フグ調理師等)と施設に限って取り扱うこととされています。したがって、釣り人等の素人判断での調理は絶対に行ってはいけ ません。
フグ毒の本体はテトロドトキシンという非タンパク質性の毒素で、結晶は有機溶媒や水に不溶で含水アルコールや酸性溶液には可溶という性質をもっています。重要なのは、一般的な加熱調理では毒素の分解はほとんど起こらないということです。テトロドトキシンは強力な神経毒で筋肉の末梢神経及び中枢神経を麻痺させ、人に対する致死量は1~2mgと推定されています。
フグ毒による中毒症状は食後20分から3時間程度の短時間で現れます。重症の場合には呼吸困難で死亡することがあります。中毒症状は臨床的に次の4段階に分けられます。
現在のところ、フグ中毒に対する効果的な治療法や解毒剤のようなものはありません。しかしながら、人体内ではフグ毒の排出が早いので、8時間ほど生命を維持できれば、回復に向かい後遺症はないとされています。万一フグ中毒に罹った時には、直ちに医療機関に連絡し、人工呼吸により呼吸を確保し、適切な救急治療が施されれば必ず救命できます。
現在でもフグ毒、テトロドトキシンはフグ自身が体内で生合成した固有の毒素であると思っている方が多いと思います。しかし、近年の研究で、カリフォルニアイモリ、ツムギハゼ、スベスベマンジュウガニ、ヒョウモンダコ、エゾバイ科のバイやムシロガイ科のキンシバイやハナムシロガイなどの小型巻貝、フジツガイ科のボウシュウボラなどの大型の巻貝、ヒトデの仲間のトゲモミジガイ、プランクトンのヤムシやワレカラなどがテトロドトキシンを持っていることが明らかになっています。
ちなみにわが国でボウシュウボラやキンシバイなどの巻貝によるテトロドトキシンが原因とされる食中毒が起こっています。このように色々な種類の生物からテトロドトキシンが検出されたことから、毒を保有する生物がテトロドトキシンを生合成するのではなく、別に原因があるのではないかと考えられるようになりました。
そのような中で上記のスベスベマンジュウガニやトゲモミジガイなどの消化管やヒョウモンダコの唾液腺から単離したビブリオ属などの細菌がテトロドトキシンを産生することが明らかになりました。
現在ではフグの持つ毒素、テトロドトキシンはビブリオ属やシュードモナス属の細菌を毒素の起源とし、毒素を蓄積した巻貝やヒトデ類を捕食するという食物連鎖によってフグに蓄積されるという経路がフグの毒化の定説になっています。ちなみにフグをテトロドトキシン保有生物から隔離し、人工餌で養殖すると、いずれの臓器・組織にも毒素は蓄積しないことが実験で明らかになっています。
フグの料理はフグ調理師のいる店でしか食べられないのかというとそうではありません。あらかじめ有毒部位を除いた身欠きフグは店頭で買うことができ、家庭でも十分にフグが味わえます。また、石川県の「フグの卵巣の糠漬け」は珍味として有名ですが、これはゴマフグの卵巣を塩と糠に漬けて3年以上熟成させたもので、この間に毒素はほとんど消失し、食べても安全な食品になります。もちろん出荷前にテトロドトキシンの検査を行うことになっています。
今日ではフグ料理もかなり大衆化してきたと思いますが、だからと言って釣ったフグを資格免許のない人が料理するのは極めて危険です。釣ったフグは持ち帰らない、食べないということを心掛けましょう。
(参考文献等)