遠山椿吉記念館
遠山椿吉記念館は、明治の細菌学者 遠山椿吉を通して、近代日本の医学・衛生学の歴史の一片をご紹介するサイトです

記念館開館にあたって

遠山椿吉記念館開館にあたって

遠山椿吉は、1891(明治24)年4月1日、結核が国民病、死病といわれた時代に、「社会の為、学術を応用して、正確な早期診断のもとに人びとの命を救いたい」と、佐藤保、川上元治郎とともに6畳ほどの部屋に1台の顕微鏡を置いて顕微鏡検査所(1892(明治25)年、東京顕微鏡院と改称)を創設しました。

33歳の椿吉に対し、陸軍軍医総監の石黒忠悳(いしぐろただのり)、海軍軍医総監で成医会(後の東京慈恵会医科大学)を創設した高木兼寛(たかぎかねひろ)、内務省衛生局初代局長として近代日本の衛生行政の基礎を築いた長与専斎(ながよせんさい)など10名の方が、賛同者としてその活動を支援したということです。

予防医療にいち早く着目した遠山博士は、1907(明治40)年には保健部を設置し、渡航・就職就学・兵役・雇人の疾病有無の診査などに生かせるよう、健康診査や、伝染病予防法などの指導・衛生相談を呼びかけました。また、1903(明治36)年より1916(大正5)年まで東京市衛生試験所初代所長を兼任し、東京に安全な水道水の供給を実現するとともに、1904(明治37)年より上水協議会を通して水道水質の向上に貢献し、日本の公衆衛生の発展に寄与しました。

公衆衛生・予防医療の向上には、個人個人の先見的な発想力や社会的使命に基づく地道な研究が必要です。遠山博士は、研究にまい進し、医療技術者を育成し学術振興に努めるだけでなく、執筆活動、講演活動、歌や映画、演劇、博覧会などを通して一般市民に衛生思想を普及啓発し、世の人びとの長寿と幸福の増進を図ろうと力を尽くしたことが記録に残されています。

このたび、2011(平成23)年4月1日に(財)東京顕微鏡院とその保健医療部門をルーツとする(医社)こころとからだの元氣プラザは、創立百二十周年を迎えました。これを記念して、遠山椿吉の業績、東京顕微鏡院および近代日本の医学、衛生学の歴史の一片をご紹介すべく、ここに「遠山椿吉記念館」として公開させていただく運びとなりました。

第一弾として、近代医学・衛生学の黎明期である明治という時代にスポットを当て、少しずつ当時の原文資料をご紹介いたします。この記念館が、皆さまの近代日本における医学、衛生学の歴史に触れる機会となりましたら、誠に幸いです。

*文中、敬称を略させていただきました。

遠山椿吉 1857.10.1~1928.10.1 医学博士

遠山 椿吉(とおやま ちんきち)

1857.10.1~1928.10.1 医学博士

遠山椿吉は、1857(安政4)年山形県山辺村に生まれ、東京大学において別課医学を修め、山形県医学校済生館で教頭を務めた後、再び上京し、東京医科大学撰科で衛生学と黴菌学を研究し、帝国医科大学国家医学科を卒業しました。

1891(明治24)年東京顕微鏡院を設立し、二千余名に及ぶ医療技術者の養成、医学検査の実践普及、結核予防、細菌学や脚気の研究、学会誌発行、健康診査、衛生思想普及活動などを推進。そのかたわら、東京慈恵医院医学校講師、東京市衛生試験所長などの職を兼ね、公衆衛生の発展に寄与しました。また水道の生命ともいうべき水質の問題について、「水道水質試験法」の統一を呼びかけ、1904(明治37)年3月、東京で「上水試験法統一のための協議会(上水協議会、現在の日本水道協会)」を開催しました。1931(昭和6)年まで28回にわたり日本各地で水質、浄水、排水等の技術・管理を含めて討議したことは、わが国水道事業発展の経過を示す貴重な文献となっています。

医事衛生分野における多数の著書がありますが、最晩年には、「さちのために」「人生の意義と道徳の淵源」など思想書を著し、華道や朝顔作りなど多彩な趣味を持ち、和歌に数多くの作を遺しています。

2008(平成20)年、遠山椿吉生誕150年没後80年を記念して、遠山椿吉賞を創設。公衆衛生向上に優れた業績を挙げた研究者の功績を称えるため、食と環境の科学賞、健康予防医療賞の2部門を、隔年で選考顕彰しています。

基礎資料

東京顕微鏡学会学会誌
 ・「顕微鏡」1~128号(1894.8~1915.12)
 ・「東京顕微鏡学会雑誌」23巻1号~50巻6号(1916.2~1943.10)